褒めることの功罪:言語によるノウハウ化が本質を見失わせる
こんにちはヒロです。
先日葉山まで海岸を
ドライブしました。
海岸では海の家の設営が
進んでいます。
サーファーは1年中見られますが、
海岸にいる人の数を見ると
すでに夏なんだなと実感します。
さて今日は「褒めることの功罪」
についてです。
最近では厳しく育てるよりも
褒めて伸ばすのが当たり前という
風潮がありますよね。
褒められると気持ちいいですからね。
厳しいだけでは
心が折れることもあるので
こういう風潮になるのは当たり前です。
私って褒められて伸びるタイプなんです!
と宣言して、褒めてくださいアピール
をする人もいますよね(笑)
僕自身もスパルタ的な
厳しさは好きじゃないです。
しかし、褒めることを
盲信するのは危険だと感じます。
どことなく居心地の悪さを
感じるんですよね。
それは褒める側に不純な動機を
感じるからかも。
そもそも褒めるって一体何なんでしょう。
褒めるというのは
ある価値観がないと成立しません。
その価値観とは……。
…
…
…
良い悪いというものです。
つまり前提として
世界を2つに割って良い悪いという
ジャッジをしているんです。
そして厳しい教育は
悪いところを指摘する。
褒めるのは
良いところを指摘する。
表と裏であって
本質は同じなんですよね。
つまり、たとえ褒めたとしても
良い悪いという価値観自体は
押し付けているわけですよ。
そして、その価値観が真なのかは
検証すらされない。
例えば親が子供を褒める時、
自分にとって都合の良い子にする
ためにやっているのではないか
ということです。
ある種の洗脳です。
褒めるということは
良いようにも悪いようにも使える
諸刃の剣だよってことです。
でもその自覚なく
剣を振ってしまう人が多いなぁと
感じてしまいます。
最悪なのは褒めるという行為に
自己陶酔しているような人。
私って人を褒めてイケてる!
みたいに、結局相手ではなく
自分の価値上げになっている。
褒めるぞ!と意識した段階で
こういう不純さがつきまとい
始めちゃいます。
そもそも褒めるって
意識してやることなのかということ。
意識してやってる段階で
それは褒めてるのではなく
コントロールなのかもしれませんね。
その気はなくても、いつのまにか
褒めてしまっているというくらい
価値基準にまっすぐ生きれたら
爽やかだなと思います。
あなたはどう思いますか?
動画では少し違う視点から
褒めることの功罪について
お話をしています。
耳の痛い話もあるかもしれませんが、
褒めるという行為は根っこから人と繋がると
消えてなくなるのがわかると思います。
よろしければご覧ください。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『褒めることの功罪』
(13分47秒)
⇣ ⇣ ⇣
https://youtu.be/bTRdwUzHijQ
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追伸
6月14日 21:00から
『第37回大人になれない
オヤジのシンリ探究談義』
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テーマは「生きづらさ」です。
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